日本主要文学简介与感想(日语)

发布时间:2011-03-22 14:53:20   来源:文档文库   
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「こころ」

私が高校生の頃から文学作品といわれる小説を読み始めてから、最初に、まさに心の底から感動した作品は夏目漱石の「こころ」であった。私の初めての漱石体験は「坊っちゃん」でも「三四郎」でも「吾輩は猫である」でもなく、「こころ」だったのである。「こころ」の読書体験が未来の私の行くべき道を決めたといってもいささか誇張ではない。私は将来ずっと文学と縁をもちたいとうっすらと思い描いた。「こころ」にはそれだけ人を動かす力があったのである。

 しょせん高校生の私に「こころ」を本質的に理解できようはずはなかったが、私は魂を揺さぶられた思いがした。その後「こころ」の読後感と同じような経験をしたのはドストエフスキーの「罪と罰」を読んだときだ。なぜかこの2つの作品の読後感は似ていた。森鴎外永井荷風太宰治トルストイバルザックゾラディケンズなどを読んだときとは違う読後感を与えてくれた。おそらくこの2つの作品が人間の心の奥の奥に潜む魔物を追求しているからであろう。

 「こころ」は上中下の3編からなっている。すなわち、上「先生と私」、中「両親と私」、下「先生と遺書」である。上中は「私」の語りから構成されている。

 「私」は鎌倉の海辺で偶然「先生」と出会い、それ以来先生」に惹かれて東京の先生」の家にたびたび訪なうようになる。

 「先生」は学校の先生ではなく、どこにも勤めていない財産でもってそれなりに暮らしていけるいわゆる高等遊民であった。「先生」には美しい奥さんがいた。

 「私」は「先生」の家に出入りするようになって強く「先生」のことに関して興味をもつようになる。それと同時に敬愛の念も増してきた。いつしか、「先生」の家の書生みたいな感じになっていった。「先生」が夜出かけて家を留守にするときなど、私」は「先生」に呼び出され、奥さんの用心棒を命じられたりした。そのとき、「私」は奥さんから「先生」のことについて聞いた。奥さんによると、「先生」はあるときから人が変わったようになったと言った。先生は無口で暗い感じの人であった。

 「先生」は月に1度、雑司ヶ谷の墓地に墓参りに行く。その墓には「先生」の友人が眠っている。「先生」はその友人のことについては「私」に一切話さない。「先生」は何か人に言えない秘密をもっているかのようである。

 「先生」は孤独であった。「先生」は大学出ではあったがそれらしい友人もいなかったし、「先生」の家に訪ねてくる人もほとんどいなかった。

 「私」は大学を卒業しても就職先が見つからなかった。いそいで職を探さなければならないという立場ではなかったが、「私」の父が病でたおれてからそうはいかなくなった。私」は田舎に帰り、父の看護をしながら、就職先の世話をしてもらうために「先生」に手紙を書いた。だが、「先生」からの返事はなかった。

 そのうち明治天皇が崩御し、そして9月の御大喪の日、乃木大将が殉死した。

 それから、数日して先生からたいへん分厚い手紙が「私」の許へきた。それは先生」の遺書であった。私」は家のものに内緒で停車場にかけつけ、東京行きの汽車に乗った。そして、汽車の中で「先生」の遺書を読んだ。下「先生と遺書」は全編「先生」の遺書である。この遺書には「先生」の秘密が書かれていた。

 「先生」はある時期から自分の逃げ場は「死」しかないと悟っていた。他に逃げ場はなかったのである。なぜ、「先生」は逃げなければならなかったのか、それは友人を裏切った「自己」を否定したかったからだ。

 友人はKといった。Kは「先生」の幼な友達であり、中学高校大学のときの同級生であった。2人が大学生のとき、Kは家の問題で学業を続けていくのが困難になった。そんなKに同情した「先生」はKを自分の下宿に住まわせた。その下宿には家主である未亡人とその娘(「先生」の遺書ではお嬢さんとよばれ、「先生」の奥さんになる人である)が住んでいた。お嬢さんはたいへん美しく、女学校の生徒であった。仏教の研究をするKは無口で無愛想な人間であったが、Kはお嬢さんに惚れ、そのことを「先生」に告白する。 かねてお嬢さんに気があった「先生」は動転し、そして深く悩む。悩んだ結果、「先生」はお嬢さんの母親に「お嬢さんをください」とたのむ。母親は承諾した。このことを知ったKはまもなく自殺する。

 Kは遺書を残した。それにはお嬢さんのことは触れられていなかった。

 これ以来、「先生」は悩むことになる。

 はたして「先生」は自殺するほど卑怯な人(遺書の中で「先生」は自分のことを卑怯者と蔑む)であったのであろうか。論語にいう天命を知らなければならない50歳を超えた私は今もってわからない。ただ、「先生」の苦しみはいくぶんかわかるつもりだ。

 「こころ」を図式的にとらえてみると、近代と前近代という対立が見えてくる。「自由と独立」の近代と「倫理」の前近代である。恋愛は自由である。好きな人と結婚してどこが悪いといったら「こころ」という小説は成り立たない。「こころ」には「友を思う」という「倫理」が厳然に存在したのである。

 先生」は最終的に「倫理」を重んじたのである。それを、「先生」を敬愛するこれから近代を作っていく若い「私」に教えたのである。その実際的な例が乃木大将の自刃であった。乃木は明治天皇と倫理に殉じた人なのである。そして、その「倫理」のことを「先生」(たぶん漱石も)は明治の精神というのだ。

 この「こころ」の構図をユーモラスにすると「坊っちゃん」になるのだろう。

 漱石は前近代を肯定し、近代を否定したのではない。安易な近代の肯定と安易な前近代の否定を否定したのである。

「それから」

夏目漱石の「それから」はその前に書いた「三四郎」のそれからを扱ったものだからという理由でタイトルが決まったらしい。いかにも漱石らしい。

 普通「三四郎」「それから」「門」は3部作といわれる。その3部作の中心テーマは「男と女のつながり」である。「つながり」を恋愛関係といってもよい。もっというと「恋愛関係のあり方」といっていいかもしれない。

 これら3部作において、「三四郎」にはユーモアがあり、「門」は暗い。「それから」はその2つの作品の間にあるものだから、ユーモアと暗さの間にあるかというと、どこか理屈的な要素が多い。なにしろ「それから」の主人公代助は30歳近くなるのに、未だに親がかりで職についていないのである。代助は職に就かない自分を理屈でもって正当化する。代助は働かない理由を世の中のせいにしている。

 「それから」はある意味において漱石の代表作であるともいえる。その理由は高等遊民という人種を創造したことであり、姦通(現代流にいうと不倫)を扱った小説だからである。漱石の生きた時代、姦通は法律(姦通罪なるものがあった)によって罰せられたのである。漱石は小説の主人公に法を犯させたのである。

 長井代助は大学を卒業しても職に就かないで毎日読書をして生活していた。彼の父親は実業家である。代助の兄の誠吾が父の後継者であり、父と一緒になって会社を切り回している。代助は父から毎月生活費をもらって家を構えて悠々自適の生活を送っている。

 ある日、友人の平岡が関西から妻の三千代を伴って上京してきた。遊びのための上京ではなく、勤めていた銀行をやめての上京である。平岡にはかなりの借金があり無職であるので、平岡夫婦の生活は窮し、そして夫婦の関係は荒んでいった。

 代助と平岡は大学時代の同級生であり、彼らの共通の友人が三千代の兄であった。三千代の兄は大学在学中に亡くなった。代助は平岡と三千代が夫婦になるのを応援した。だが、実際において代助は三千代のことを愛していたのである。三千代も代助のことを愛していた。

 3年ぶりに会った三千代は生活の苦しみの中におり、平岡の三千代に対する愛情も薄れていた。代助は三千代を愛していることをはっきりと自覚し、それを行動で示した。

 代助の父は執拗に縁談をすすめたが、代助ははっきりとそれを断った。そして、代助は平岡に自分の三千代にたいする気持を打ち明け、三千代をくれと迫った。平岡は代助と三千代に裏切られた思いがした。平岡は代助と三千代のことを代助の父に手紙で知らせた。代助は完全に父の手から切れて自立しなければならなかった。

 代助は狂気の状態になり、物語の最後、「僕は一寸職業を探して来る」といって家を出る。

 普通に考えれば代助の行動は異常である。父親のすすめる通り縁談に応じていれば、代助は上等の地位を得、裕福な生活ができたのである。だが、代助はそれをしなかった。なぜしなかったのか。代助は自分の主観的真実に忠実であったからだ。主観的真実に忠実とは「自然」な状態ともいえる。

 「それから」のテーマは漱石文学のテーマの1つである「自然」対「制度」の構図の上に成り立っているともいえる。代助の行動は「坊っちゃん」の坊っちゃんの行動と似ているともいえる。心が命ずるままににすべてを投げ打って行動する。そこに打算のはいる余地はない。

 「三四郎」においては、美禰子は三四郎を愛していながら、三四郎は美禰子を奪おうとはしなかった。三四郎は初心(うぶ)だったのだ。「それから」では代助は愛する人を奪おうとした。それはまさに制度を犯す行為であった。

 はたして代助三千代の将来はいかなるものになるのであろうか。それは「門」であきらかになるのであろうか。「それから」にはそれからがあるのである。

 夏目漱石『三四郎』、『それから』、『門』を、2月から続けて、読みながら、並行して、高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』を読んでいた。普通、夏目漱石の3部作は小説であり、高橋源一郎『ニッポンの小説 百年

の孤独』は評論ということになっている。が、このふたつの作品、ふたりの作家を、読了したぼくには、少し戸惑いがある。ぼくには、高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』が、小説につい

て語った評論のようには、どうしても読めなかったのだ。

 ぼくには、高橋源一郎の評論の方が、夏目漱石の小説よりも、ずっと小説のように読めてしまった。

 いや、夏目漱石の小説が詰まらないということではない。夏目漱石の小説は、とても面白いのだ。このように、ぼくが思ってしまったということは、単純に、明治に書かれた小説と、現代に書かれた評論を、小説と評論という垣根を越えて、ぼくが同じレベルで書かれているものとして受け取り、更にまた、同じレベルで、ぼくが読んでしまっているためではないかと思えるのだ。

 本来は、創作とそれに対する評論は言葉のレベルが違うはず。

 夏目漱石の小説は、その後、日本の作家たちの小説を書くための規範となるくらいの小説だから、とてもオーソドックスな内容になっている。高橋源一郎の評論は、そういうオーソドックスな小説に対する批判的評論になっている。

 つまり、このふたりの作家は、方向を逆にしながらも、どちらも規範的な小説について語っているように見えるのだ。となると、批判的評論である、高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』の方が、その批判的な書き方のゆえに面白く感じられてしまうということになるのだ。夏目漱石が書いていた時代から、高橋源一郎が書いている現代まで、時間が経過している。その時間の経過のなかで、書くことも読むことも、また、成熟してきている。評論的文章すらも、小説のように書けるということ、また、評論的文章すらも、小説のように読めるということ、更には過去に書かれた小説を評論的見地から読んでしまえるという成熟が、その長い時間のなかで、為されたと考えるのは、言い過ぎになるだろうか。

 以下、この夏目漱石の3部作のまとめ感想を書いてみる。

 『三四郎』は、『それから』、『門』へと続く、漱石の三部作の始まりの小説なのだが、内容は、続く『それから』、『門』と比較すると、とても淡いものなっている。田舎から東京の大学へと進学した三四郎が、東京で、知的刺激を受けたり、マドンナに対して淡い恋愛と失恋をしたりする物語。この小説は、漱石の『坊っちゃん』と、丁度、逆の形になっている。

 『坊っちゃん』では、江戸っ子の主人公が田舎の学校に先生として赴任し、そこで田舎臭いドロドロのなかに巻きこまれ、仕舞いには、キレて暴れて東京に戻ってくるという内容だったのだが、こちらの『三四郎』では、田舎から東京に出てきた若者が、都会らしいサバサバした雰囲気のなかで、サバサバと恋愛をし、サバサバと失恋をするという物語。

 『坊っちゃん』に、清という母性の象徴のようなバアヤがいたように、この『三四郎』にも九州の田舎に母親と母親の決めた許嫁という古い母性がいる。

 ぼくは、『坊っちゃん』と『三四郎』はとても親しい関係にあるように思えるのだが、向きが逆であるだけに、『三四郎』では、主人公は都会のオトナになるしかなく、つまり、その後の『それから』、『門』の展開へと進む、都会的なドロドロに首まで浸かるような生活のなかに埋没するしかなかったわけだ。

 この都会的なドロドロというのは、つまり、社会の複雑さということであるように思う。そのドロドロに対しては、諦念のようなものを抱えることしか、対抗する術はない。社会に対して全体的に生きることを無理なこととして、どこかで諦め、そうして、自分の矩のなかで生きていくこと。『坊っちゃん』のように暴れてしまったら、行く場所はないのだ。

 美禰子が三四郎に、「迷える子(ストレイシープ)」という言葉を教え、三四郎は、その言葉を銘記するのだけど、結局は、迷いのなかで諦念とともに生きていくこと。しかも、神はない。

 ぼくは、この小説にそういうことを感じる。しかし、この全体的に生きることの出来ない社会は、意外に、居心地は悪くない。

 と、この小説に関するぼくの感想は、以上で尽きてしまうのだが、これだけではバカみたいだから、もう少し、書く。

 柄谷行人は、この新潮文庫の巻末に置かれた解説で、漱石の作品について、ふたつに大別されるということから書いている。

 ひとつは、前半に書かれた『吾輩は猫である』などに代表される作品。そして、この『三四郎』から始まる、後期に至る『それから』や『門』、『こころ』などの作品。

 『吾輩は猫である』は、筋らしい筋、物語らしい物語を持たない、登場人物たちの饒舌な会話によって成立している内容であり、『三四郎』から始まる作品群は、小説らしい小説「重苦しく且つ深刻なテーマ」の下に展開させる内容となっている。

 柄谷行人は、前者の小説を、「小説に先行するジャンル」と呼び、後者を近代小説と呼ぶ。無論、柄谷行人は、そのように漱石の小説は進化したと言っているのではない。むしろ、小説の可能性を拡げるものは前者のようなタイプの小説ではないかと言っているように見える(逆に言えば、小説の可能性を狭めるのは、漱石の作品群について、前者は後者のためにあったとするような見方であるということなのだろう)。

 このことは漱石自身も自覚的であって、そのことを柄谷行人は、次のように書いている。

 「漱石は、小説の文壇とはべつの場所で書きはじめた。『猫』や『漾虚集』は、俳諧誌「ホトトギス」で発表されている。正岡子規がはじめた「ホトトギス」派は、「写生文」を掲載していた。漱石自身も小説を、「筋の推移で人の興味を惹く小説」と「筋を問題にせず一つの事物の周囲に躊躇低廻する事によって人の興味を誘う小説」の二つに大別し、後者は俳味禅味を帯びたものであるといっている。いいかえれば、「写生文」は、何か書くべき意味や対象を表現するよりも、言葉が自ずから動くなかで或る俳味禅味を一瞬在らしめることをめざすのである」

 この『三四郎』は、柄谷行人によれば、前者と後者の中間に位置する作品、つまり、「一つの事物の周囲に躊躇低廻する事によって人の興味を誘う小説」であり、同時に「筋の推移で人の興味を惹く小説」でもあるということ。

 「三四郎には三つの世界が出来た」         

                 (夏目漱石『三四郎』新潮文庫P80)

 この3つの世界とは、古い世界、現実の世界、憧れに満ちた世界というものに、それぞれ対応すると思うのだが、三四郎が一貫して「躊躇低廻」するのは、この3番目の世界である美禰子の世界。三四郎は、この3つの世界を見ながら、しかし、その見るときの力のいれ具合という緩急の付け方で、「一つの事物の周囲に躊躇低廻する事によって人の興味を誘う小説」と「筋の推移で人の興味を惹く小説」のふたつを同時に生きているのではないか。

 と、柄谷行人の解説文を曲解するような感想になってしまったかも知れない

が。

 『それから』は、『三四郎』のそれからを描いている。

 親の金を頼りに、独り暮らしをして、それで1日中、本を読んだり音楽を聴いたり絵を観たりする。芸術に親しむ日々。頭は悪くないので、そうやって芸術に接していると、それなりに考え方も深まってくるわけで、その深まりが自分として、とても楽しい。でも、社会に参加する積もりは全然なくて、しかも、頭は悪くないから、社会に参加しない理屈もそれなりに整えている。とても、とても幸福な日々。で、そういう清涼な日々のなかで、ひとつの再会をするわけだ。かつて好きだった女。その女が現在はどうも不幸せに暮らしているらしい。自分ならば、その女をそういう不幸せな日々から救い出せるのではないだろうか。いや、それ以前に、自分のこの清涼ではあるが、どうにも退屈でもある日々を抜け出す契機にもなるのではないか。そういう思いが、複雑に絡まり、その複雑な絡まりは、この女への愛となって、ああ、もうイイや、親の金なんか頼りにするものかという決断にまで高めていく。

 まるで、落語の若旦那(大好きな「湯屋番」とか)を描いたような作品で、とても面白い。今回は2度目の読みだし、松田優作主演の映画も2度観ているのだけど、この物語は、飽きない。多分、ぼくの願望が小説になっているからかも知れない。

 3部作ラストの『門』は、かつて親友から女を奪った男が、東京の崖の下に建っている家で、親友から奪った女を妻として、隠遁するように静かに暮らしているのだけれど、どうしても後ろ向きに生きることになってしまっているという場面から始まっている。

 が、主人公たち不義の夫婦は、そういう日常にそれなりの満足(後ろ向きのだが)を持って暮らしている。しかし、親戚から、今後、学費の面倒をみることは出来ないと援助を打ち切られた弟が、同居することになるし、妻の身体の

具合は悪くなるしで、様々な変化が訪れる。更に、崖の上に住んでいる家主の家に、かつて、その妻を奪った親友が訪問するということを、主人公は知るに至り、小説世界は、ゆるやかにではあるが動き始める。

 不安に駆られた主人公は、唐突に、妻に参禅するということを隠したまま、鎌倉の禅寺に修行に行くことにする。かつて、歯科医の待合いで読んだ禅の平明な境地を得ようとしたのだ。しかし、禅寺では、何の進展もなく、主人公は迷いを持ったままに東京に戻ることになる。東京では、主人公のいない留守にも、やはり何事も起きていなくて、結局、そのままに暮らしが続くこととなり、そのままに小説は終わる。

 「自分は門を開けて貰いに来た。けれども門番は扉の向こう側にいて、敲いても遂に顔さえ出してくれなかった。ただ、「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」と云う声が聞こえただけであった」

                  (夏目漱石『門』新潮文庫P207)

 この禅寺のエピソードは、巻末の柄谷行人の解説によると、弟子たちが勝手に決めた小説タイトルである『門』に、整合性をつけるために無理に入れたエピソードだという説があるとのこと。しかし、柄谷行人も、この説に対して否

定的に書いているように、「この唐突な参禅において重要なのは、宗助がそれを妻に隠していることである」。

 柄谷行人は、この不義の夫婦には、始めから「溝」があったのだとしていて、そのために、主人公は、妻に内緒で、参禅し、ひとりで現実を打開しようとしたのではないかとしている。つまり、この禅寺にすがりつきたい不安は、妻との生活に即したものから、ふたりで立ち向かうものとして起きる不安ではなく、かつての三角関係から生じた問題について、妻の側にではなく、その妻を自分が奪ってしまった親友に対して、むしろ、シンパシーを持ってしまったことにより生じた罪障感であり、不安であるとするのだ。

 だから、主人公は、妻に内緒でひとりで参禅に行き、そこで、かつての三角関係が、現在に依然として、もたらす不安を解消しようとしている、と。

 確かに、それはその通りだと思ったのだけど、しかし、ぼくとしては、この主人公のどこまでも内に引き籠もる性質ということを思った。つまり、主人公は、不義の恋を結婚にまで発展させ、親や親戚から、また大学から、親友から、そして、何よりも社会から逃げ出し、自分たち不義の夫婦だけが静かに暮らす道を選んでいたことに注目したいのだ。『門』の冒頭には、とても静かな夫婦の生活が描かれている。しかし、その生活が、弟の同居や、妻の病気や(この妻の病気に対する主人公の狼狽は、妻への愛を通り越して、ひとりで取り残されてしまう不安を強烈に語っている)、裏切った親友がとても近い場所にいるのではないかという不安に苛まれ、主人公は、妻を置き去りにし、ひとり、こころの平安を得るために、門の向こうに逃げ込もうとしたのではないかと、ぼくには思えるのだ。

 無論、これは主人公と禅寺とで「門」を挟んだあちらとこちらの解釈が真逆になるわけで、当然のこととして、主人公は「門」の向こうに入ることは出来ない。つまり、門番はいるが、その「門」は「独りで開けて入れ」ということだ。主人公は、「門」の向こう側に閉じた平穏な世界を思っていた。しかし、「門」の向こうは、本当は、こちらの世界に通じているものであり、禅者たちは、不思議な世界で禅をしているのではなく、こちらのこの世界で禅をしているのだ。主人公には、おそらく、ついにそのことは理解出来ていない。理解は出来ていないのだけど、しかし、「門」の向こうにひとりで引きこもるのではなく、「うん、然し(しかし)又じき冬になるよ」という現実世界で、不義としての関係の始まりを持った妻と生きようとすることになるのだ。

 夏目漱石の、この3部作は、つまりは、そのような世界と自分を隔てている「門」を巡る物語であったということになると思う。

 『三四郎』では、女性という他者と接する「門」であり、『それから』では、閉じた場所から社会に出ようとする「門」であり、『門』では、自分のこころと世界との間にある「門」であるというように。

 と、こうやって夏目漱石の小説について感想を書いたわけだが、しかし、こんな感想は全く無意味だ。なぜなら、こんなことは、わざわざ、こうやって書かなくても、すでに夏目漱石の小説に明瞭な形で描かれているからだ。

 ぼくがこうやって延々と感想を書くのは、単に、書かれた小説を再話しているに過ぎないのだ。

 ぼくたち、近代の読者というのは、このような作品の再話について、読書そのものよりも興味を持ってしまっているのではないか。佐藤亜紀は、そういう再話の楽しさ、他者と再話の仕方を争う楽しさを「遊戯的な闘争」と読んでいる。

 高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』は、しかし、明瞭に書かれたものについて再話する類の評論ではない。むしろ、夏目漱石が小説を書いたような形で、新たな言葉として紡いだ、新たな「門」について語っているのだ。

 この「門」とは何に対しての「門」なのか。

 何と何を隔てる「門」なのか。

 この「門」は世界と小説を隔てている「門」のことだ。

 だから、高橋源一郎は、この評論のなかで、世界について語り、小説のことについて語る。その両者を同時に語ることで、この「門」について語るのだ。

 高橋源一郎は、かなり柔和な表情で、しかし、ばっさりといろいろなものを詰まらないものとして切り捨てる。他者の著作からの引用を縦横無尽に使役しながら、明治から100年間、書き続けられてきた小説について、ばっさりと切っていく。現代の小説なんか、ほとんど、コテンコテンに罵倒され(とても柔和な表情で)、わずかに認められた作品についても、それはすでに小説ではないものになっているというように語っている。いや、高橋源一郎に言わせれば、そのような作品群、すでに小説であると認めることが難しい新しいものにこそ、小説の未来は託されている「小説」となっているということになる。

 しかし、ぼくは思うのだが、引用されている、小説ではなくなっている新しい「小説」を実際に読むより、また、書かれている内容が明瞭にそのままに伝わってくる夏目漱石の小説を読むより、この高橋源一郎の評論が、何倍もスリリングであり、面白く感じられ、むしろ「小説」であると思えるのだ。

 高橋源一郎は、詩人、荒川洋司の著作から引用する形で、現在の小説には何も意味がないと力説する。小説に意味があるという前提は、すでに当たり前のものを再生産することにしかならないのではないかということであり、そういう手あかのついた、飽きずに再生産される小説について、口を極めて、と言いたいほどに嫌悪感を示している(同様に、この種の小説を罵倒している佐藤亜紀ほどには直接的ではなく、何度も書いているように柔和な表情で)。

 むしろ、意味ではなく言葉に内在している、世界と言葉の間の「門」としての「価値」を読み取ることに意味があるとしているのだ。

 書かれていることが明瞭に伝わることを拒否する「小説」や、そこに書かれていてることを裏読みしたりする必要がある「小説」や、「小説」ではない顔をしつつ小説している「小説」や、小説は終わったと嘆く「小説」には、正直、ぼくは興味がない。

 まあ、読めば面白いなとは思うだろうけれど、しかし、それらの新しい「小説」は、結局、夏目漱石の小説よりも詰まらないだろうし、村上春樹の小説よりも詰まらないだろうなと思えるからだ。

 ぼくには、高橋源一郎の評論の方が、よほど、「小説」に思えるのだ。

 ぼくたちは「意味の病」に取り憑かれているのだから、ずっと「意味」と戯れていれば良いと、ぼくは思う。

友情

内容的には、ご存知の方も多いと思うが、主人公野島が杉子に恋をして、結婚の申し込みをするのだが、杉子には断られる。その理由は、杉子が野島の友人である大宮という男を好きになったためで、やがて大宮と杉子は結婚することになる...、という話だ。

結局、野島は片思いだったわけだが、彼の杉子に対する愛情は、ひたむきさを感じる反面、一人よがりな部分が目立っている。簡単に言ってしまえば、「恋は盲目」というやつだ。大宮は、野島が杉子を好きになった頃から相談を受け、何かと野島を勇気づけ、また、野島と杉子が恋人同士になれるように、野島のために努力する。が、そのうち、杉子が自分に対して想いを寄せているらしいことに気づき、パリに旅立ち、杉子との縁を断ちきろうとする。しかし、自分もやはり杉子のことを好きであることがわかり、悩んだ末、結局杉子の愛を受け入れてしまう。そのことで、大宮は野島に対し罪の意識を感じ続けるが、最後に野島に全て打ち明ける。「こういうことになってしまったが、君はきっと立ち直ってくれると信じている」と。

大宮の行動には責められるべきところはない。やはり、愛し合っている者同士が一緒になるのが、一番の幸せであり、友情のために自分の恋を犠牲にする必要はないだろう。野島がきっと立ち直り、いつか二人がまたかつての友情を取り戻してくれることを願ってやまない。

武者小路実篤『友情』

具合が悪い時に、寝転がりながら読んだ。

簡単に言えば、主人公の男(野島)がある女性(杉子)に熱烈に恋したが、主人公の親友(大宮)とその女性が相思相愛になり、それを後々になって知った主人公は絶望の淵に追いやられる、という話である。大宮は、野島との友情を考えて杉子との相思相愛を隠し、避けようとするのだが、僕はそういう大宮の行動に強い違和感を持った。もし自分が大宮だったら、間違いなく野島に「おれも杉子のこと好きだ」と言っている。周りに素直に言うべきだろう。偽り続けても、自分にも他人にも嘘をついていることになる。しかもこの場合は杉子も大宮を好きなのだから、いいだろう。2人がくっついて何の問題もないじゃないか。3人が3人とも幸せになるのは不可能なのだから、せめて2人が幸せになればいいという話だ。野島が失恋でちょっと苦しむだけだ。それは恋愛において致し方ないことだろう。大宮も、失恋した野島を見てつらいかもしれないが、それが3人にとって最適解であることは間違いない。あまり素直すぎるのも危険だが、率直に考えを言い合うことというのは長い人間関係の秘訣だと思う。秘訣というか、率直に言い合える関係で関係が続くこと自体が珍しく、それが出来れば関係も長く続くというだけだけれど、長く続く人間関係に偽りはない。そのへんを大宮はわかっていない。大宮は友情を勘違いしている。夏目漱石『こころ』の「先生」も同じことだ。普段素直に言い合えていればいいのに、突然「K」を裏切るから自分も必要以上に苦しいのだ。

と少し考えてから、自分が非常に現代的な考え方をしていることに気がついた。合理主義的とも言えようか。たしかに昔は義理堅かった。この宮本の行動も、野島との友情という「義理」によるものだろう。現代的に考えれば、「義理」は非合理的で矛盾だらけである。数値化された価値(効用)に、そんな矛盾だらけの義理や人情は考慮されない。昔はなぜ義理が強かったのか。義理を固く守ることにどのような価値があるのだろう。(この考え方自体がすでに合理的ですね。)逆に義理に無頓着になった現代に、何が失われたのだろう。ふと高倉健のヤクザ映画を思い出した。「義理」は矛盾だらけではあるけれども、どこか肯定したい気に駆られてしまう。

『斜陽』

 没落した貴族の一家の滅びの姿が、一家の娘の語りとして、描かれているのだが、途中に挿入される息子のノート、また遺書、更には、娘が不良作家に恋して送った手紙など、多面的に物語は語られていく。

 母親の貴族らしい優雅な、しかし、弱々しい生命力。また、息子の、戦後の大衆生活に自ら入り込もうとするが失敗し自殺してしまう、生真面目さと弱さ。

 これらが、娘の目を通して、とても美しく描かれている。

 戦前からの貴族の家に育ち、また、貴族の家に嫁いだ、頭の先から足先まで、どっぷりと貴族である母親の、その貴族であることを証するかのような、あるいは賞するかのような娘の語り口、視線が、まず良い。

 「スウプのいただきかたにしても、私たちなら、お皿の上にすこしうつむき、 そうしてスプウンを横に持ってスウプを掬い、スプウンを横にしたまま口元に運んでいただくのだけれども、お母さまは左手のお指を軽くテーブルの縁にかけて、上体をかがめる事も無く、お顔をしゃんと挙げて、お皿をろくに見もせずスプウンを横にしてさっと掬って、それから、燕のように、とでも形容したいくらいに軽く鮮やかにスプウンをお口と直角になるように持ち運んで、スプウンの尖端から、スウプをお唇のあいだに流し込むのである。そうして、無心そうにあちこち傍見などなさりながら、ひらりひらりと、まるで小さな燕のようにスプウンをあつかい、スウプを一滴もおこぼしになる事も無いし、吸う音もお皿の音も、ちっともお立てにならないのだ。それは所謂正式礼法にかなったいただき方では無いかも知れないけれども、私の目には、とても可愛らしく、それこそ本物みたいに見える」

            (太宰治『斜陽』任天堂DS『DS文学全集』より)

 母親の天然である育ちの良さがにじみ出ている文章なのだが、それ以上に、そういう母親を見つめている娘の視線が強く感じられる文章である。このような天然の貴族である母親の元に育った子供たちは、そういう母親の姿に代表される貴族の世界がすでに滅びの姿、つまり「斜陽」の時代に入っていることを知っている。そのために、娘も息子も強い葛藤を持たざるを得ない。

 ぼくは、そういう滅びの言葉として描かれている、息子のノートに書かれて

いる文章に酔う。こんなに自意識過剰で、こんなに自己陶酔に満ちた文章が書

けたらなと思うのだ。

 「人間は、嘘をつく時には、必ず、まじめな顔をしているものである。この 頃の、指導者たちの、あのまじめさ。ぷっ!人から尊敬されようと思わぬ人たちと遊びたい。けれども、そんないい人たちは、僕と遊んでくれやしない。僕が早熟を装って見せたら、人々は僕を、早熟だと噂した。僕がなまけものの振りをして見せたら、人々は僕を、なまけものだと噂した。僕が小説を書けない振りをしたら、人々は僕を、書けないのだと噂した。僕が嘘つきの振りをしたら、人々は僕を、嘘つきだと噂した。僕が金持ちの振りをしたら、人々は僕を、金持ちだと噂した。僕が冷淡を装って見せたら、人々は僕を、冷淡なやつだと噂した。けれども、僕が本当に苦しくて、思わず呻いた時、人々は僕を、苦しい振りをしていると噂した。どうも、くいちがう。

  結局、自殺するよりほか仕様がないのじゃないか。このように苦しんでも、ただ、自殺だけで終わるだけなのだ、と思ったら、声を放って泣いてしまった」

            (太宰治『斜陽』任天堂DS『DS文学全集』より)

 この自意識の強さに感心してしまう。無論、人は「僕」なんか気にしていないということを判っていて、こういうように考えるわけだが、そう判っていて、尚、こういうようにしか書けない気持ちが辛い。

 太宰治の小説は、そういう道化た辛さを味わうものなのだとも思う。

 しかし、この小説で大事なのは、天然の貴族である母親が新しい時代のなかで生きる場所を喪失し、次第に弱り、滅んでいく姿を読むことだけでなく、また、自意識過剰の故に空回りするようにして自殺を選ばざるを得なくなった息子の道化を憐れむことだけではない。

 そのような母親、そのような弟の滅びの死を見守ざるを得なかった娘が、恋をして、子供を産み、新しい時代に生きていこうとする姿をこそ読むべきではないかと思う。

 「どうやら、あなたも、私をお捨てになったようでございます。いいえ、だんだんお忘れになるらしゅうございます。けれども、私は、幸福なんですの。私の望みどおりに、赤ちゃんが出来たようでございますの。私は、いま、いっさいを失ったような気がしていますけど、でも、おなかの小さい生命が、私の孤独の微笑のたねになっています。けがらわしい失策などとは、どうしても私には思われません。この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかって来ました。あなたはご存じないでしょう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ、女がよい子を生むためです」

            (太宰治『斜陽』任天堂DS『DS文学全集』より)

 鳥肌が立つくらいに凄い文章だと思う。世界のすべては、女が「よい子」を生むためにあると言い放つ姿。すごくカッコイイと思うのだ。この娘は、母親の持つ天然の美がすでに新しい時代には通用しないことを痛いほどに判っているし、また、弟の中途半端な(含羞に満ちた)世間への入り込みが無惨な結果に終わることも判っている。

 これは、おそらく意識として判っているということではない。身体感覚として判っているのだろうと思える。だから、娘は、身体感覚の強い発露である恋を通して、新たな展開へと至っていく。いや、恋を通してしか新しい時代に生きることが出来ないことが、身体感覚として、判っていた。

 しかし、太宰治はそんな身体感覚のもたらす未来なんて信じていない。いや、そういうようしてしか開けていくことが出来ない未来に生きようとは思いたくはなかったのかも知れない。

 「家族より自分が大事と思いたい」と別の小説で言い放っているのだから。

 そして、太宰治のなかの「女と男」、つまり、娘の部分と息子の部分は、葛藤の末に、身体感覚として滅びを選んでしまった生身の女性とともに、死を選ぶことで閉じられてしまうことになる。太宰治は、息子のように含羞に満ちて自殺することも出来なかったし、また、娘のように他者との新たな関係のなかで生きることも出来なかった。結局、太宰治は、他者と心中するという形で、この葛藤にケリをつけたように見えるのだ。

 太宰治の小説の魅力は幾らでも数え上げられることが出来ると思う。

 何よりも、まず、その読みやすい文章。太宰治の小説には、何も難しい所がない。ここには何が描かれているのだろうと立ち止まる必要もなく、スラスラと読んでいける。その読みやすい文章のなか、ハッとさせられる警句的言葉で少し立ち止まることはあっても、いつまでも楽しみつつ読んでいける文章が続いている。また、言葉の遣い方、その考えの根底にあるものが、登場人物ごとに、はっきりと書き分けられていることも重要だ。幾つかの他者の声が書き分けられているのだけど、しかし、これはバフチンが言うところの「多声的」ということとは少し違い、どの声も究極、ひとつの声、つまり作者の声に収斂されてしまう声であるわけで、そのことが、むしろ、この小説の場合は、良く出来た組み立て細工のように見せる効果となって現れている。

 太宰治の小説を読んでいると、自分でも小説を書きたくなる(まるで、星新一の小説を読んでいるときのように)。しかし、太宰治の小説は凄いけれど、太宰治の小説のように書かれた小説が、とても臭くて読めないということも、

また、良く判っているので躊躇してしまうのだ。

「不如帰(ほととぎす)」

 徳富蘆花といえばいわずと知れた徳富蘇峰の弟である。この兄弟は性格が全く違う。兄の蘇峰は野心満々の人で、民友社を創立し、「国民之友」、「国民新聞」などを発刊し、ジャーナリズム界の大御所となる。蘇峰自身も評論家として活躍する。そして、蘇峰は反体制派の立場から体制派へと変節し、太平洋戦争まで体制派言論人として生き続ける。

 弟の蘆花は、行動的目立ちたがりの兄とは反対に、癇癪持ちではあるが、繊細でシャイな人間であった。兄は政治の世界に進むが、弟は文学の世界へと進む。一人、自分の世界に閉じこもって世を送る。

 2人には共通点がある。ともに同志社英学校に学び、キリスト教の影響を受けていることだ。2人ともロシアのヤスナーヤポリーナまで出向き、トルストイに会っている。特に、蘆花はトルストイに心酔していた。蘆花は兄の蘇峰と対立し、絶縁状態になる。蘆花はトルストイと同様人間愛に満ちた人であった。

 初めて蘆花の「不如帰」を読んだときは正直驚いた。読んだあとの感想は「蘆花がこんなセンチメンタルな小説を書いていたんだなー」であった。といっても私はそれまで蘆花の作品といえば「思出の記」しか読んではいなかったが。

 私は「不如帰」を読んだ理由は間違いなく「不如帰」が明治の大ベストセラーだったからだ。明治31年に国民新聞に連載されて本になり、明治42年には100版を重ねている。現在でも、本は読んでいなくても、「不如帰」の内容を知っている人は多い。そういう意味では尾崎紅葉の「金色夜叉」、伊藤左千夫の「野菊の墓」と並び称される国民文学なのかもしれない。

 今回、「不如帰」を再び読んだ。やはり哀しくせつない物語である。「不如帰」の主人公は浪子。明治の元勲大山巌元帥の娘信子がモデルだといわれている。片岡中将の娘である浪子は川島家の嫡男武男に嫁ぐ。誰もがうらやむ結婚であった。2人は幸福な新婚生活を営む。物語は、上州伊香保で2人がたのしく遊ぶ場面から始まる。

 川島武男は海軍少尉で男爵である。将来を嘱望され、浪子の父親である片岡中将からは実の息子のように可愛がられる。だが、好事魔多し。2人の幸福な生活は長くは続かない。浪子が胸を病んだのである。浪子の病気は肺病であった。浪子の母親も肺病で亡くなっている。浪子は東京から逗子へと転地療養する。

 浪子武男の仲を割くのは肺病だけではなかった。時は明治。まだまだ江戸時代から続く「お家大事」という因襲的考えが残っていた。武男の母親のお慶がその因習の塊であった。お慶は武男が海軍の勤務で長期間家を留守にしている間に、浪子を離縁し、里に帰してしまう。

 武男は海軍の勤務から帰り、浪子のことを聞くと激怒し、母親のもとから去る。折りしも日清戦争が始まっていた。武男は艦隊に乗り込み、清の最強軍艦定遠鎮遠と相まみえるが、武男の乗る軍艦は砲弾を浴び、武男は負傷する。武男は九死に一生を得るが、浪子のことは心の中からは消えない。

 別れ別れになった2人は偶然、京都駅で顔を合わせる。浪子は東京へ向かう列車に、武男は神戸に向かう列車に乗っており、お互いを見たのである。まさに瞬間の逢瀬であった。これが最後の別れになった。ほどなく浪子は亡くなり、青山墓地に眠ることになる。

 やはり、この作品のテーマは不条理を追求したものであろう。愛するものたちが引き離される。これほど不条理なものはない。この作品で胸を打たれるのは、浪子の父片岡中将の、娘に対する愛情の深さである。親が子を思う気持は深い。

 この「不如帰」は蘆花夫婦がある夏の逗子で、偶然、同居するようになった婦人から、大山巌の娘信子の話を聞いて、その話をもとに書かれたことになっている。蘆花は自ら自分は電話線の役割をしたにすぎないと謙遜しているが、蘆花だからこそ夫人の話にいたく考えさせられ、創作意欲をかきたてられたのであろう。婦人の話が蘆花の心の琴線に触れたのである。琴線とは「人間愛」である。

 蘆花は長い間北多摩郡千歳村にすんだ。彼の家の敷地は広大で、蘆花の死後、蘆花婦人は邸宅と敷地を東京市に寄贈した。その敷地は今もなお公園として残っている。トルストイをこよなく愛した蘆花らしい。

「雪国」

 <国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。>

  というあまりにも有名な出だしで始まる「雪国」を読んだ。鮮やかな書きだしである。思わず目の前に雪野原の風景が広がる。別天地に来たようだ。私もある冬、清水トンネルを越えたとき実感した。まさにノーベル賞作家の文である。

 「雪国」を最初に読んだのは大学生のときであったが、そのときは主題も物語性もないあいまいな小説だという印象をうけた。詩といっていいのかもしれない。雪国という場所自体がはるか遠い、異次元の世界のことのように思えた。

  最初に読んでから30年近くたって、再び読んでみると、やはりあいまいなものを感じた。だが今回は読んだ後、なぜか郷愁に似たなつかしさを感じた。

  はたして、川端康成はこの作品を通して何を言いたかったのか、もしかしたら、そのような問いが無意味な小説なのかもしれない。やはり詩なのか。

  何よりもこの小説をあいまいなものにしているのは、島村であり、そして葉子である。島村はこれといった生業についておらず、舞踊についての翻訳をしてそれを自費出版するような人間である。親から受け継いだ資産があるから生活の心配はいらない。妻子はあるらしい。東京のどこに住んでいるかはわからない。夏目漱石のいう高等遊民みたいな生活を送っている。いろいろなところを旅行して、そして、雪国でたまたま出会った駒子といい仲になって、それから雪国に通うようになる。1年に1回、七夕の日に出会う牽牛星と織女星のようなものだ。

  「雪国」は葉子で始まり葉子で終わっているといってもよい。その葉子とは何ものであるのか。最後まで読んでも、駒子と葉子の関係はあきらかにされていない。葉子と駒子と駒子の師匠の息子と三角関係にあったようでもあるし、そうでもないらしい。不思議である。葉子は実体がないのに、その存在感は圧倒的である。葉子がこの「雪国」の主人公といっていいくらいだ。事実、島村も葉子に惹かれていく。島村と葉子は関係をもったのか、その描写はないがあってもおかしくはない。駒子は現実的な女として描かれている。駒子には生活の臭いがし、そして体を張ってお金を稼いでいる。酒の臭いがぷんぷんと漂ってくる。ところが葉子には駒子が放つような臭いがない。葉子の全存在はその声にあるといってもよい。小説の冒頭、島村の乗った汽車が信号所にとまったとき、島村の前のガラス窓を落とし、「駅長さあん、駅長さあん。」と遠くへ叫ぶ娘がいる。その娘が葉子なのである。島村にはその声はとてつもなく美しいものとしてかれの脳裏に残る。

  葉子の声が作品の中で何回となく湧き上がってくる。葉子は悲しいほど澄み通って木魂(こだま)しそうな声で歌う。

蝶々(ちょうちょう)とんぼやきりぎりす

お山でさえずる

松虫鈴虫くつわ虫

 そして、葉子は手鞠歌も歌う。

・・・・

・・・・

裏へ出て見たれば

梨(なし)の樹(き)が三本

杉(すぎ)の樹が三本

みんなで六本

下から烏(からす)が

巣をかける

上から雀(すずめ)が

巣をかける

森の中の螽★(★は虫に斯)(きりぎりす)

どういうて囀(さえず)るや

お杉友達墓参り

墓参り一丁一丁一丁や

 葉子は何かの象徴なのだろうか。その声といい、そしてその死といい人間離れしたものを感ずる。

 葉子の象徴性を考えているとき、大学時代にきいた文芸評論家の奥野健男の講演を思い出した。講演の中で、奥野健男は川端康成の「雪国」に触れ、実際に川端康成と話したときのことを語ってくれた。川端によると「雪国」というのは「黄泉の国」で、いわゆるあの世であるらしい。

  「雪国」があの世であるというのは何となくわかる気がする。島村はこの世とあの世を交互に行き交い、あの世で駒子と会うのである。駒子とはあの世でしか会えないし、この世にくることはない。島村と駒子をつなぐ糸は島村の左手の人差指である。島村が駒子に会いにくるのも1年おきぐらいというのも天の川伝説以外に何かを象徴しているのだろうか。

  とてつもなく哀しく、美しい声をもつ葉子はさしずめ神の言葉を語る巫女なのか。その巫女の語る言葉に島村は敏感に反応するのだ。もしかしたら葉子は神の使いなのかもしれない。

 駒子は葉子に対して「あの人は気違いになる」というのは、葉子が神性を帯びているからではないのか。

 日本人とって、あの世とは無の世界ではない。誰もが帰るべき、なつかしい世界である。あいまいな小説「雪国」がなぜか私になつかしい思いをさせるのはやはり「雪国」が黄泉の国だからなのだろうか。

「伊豆の踊子」

 川端康成といえば日本で最初にノーベル文学賞を受賞した作家である。受賞理由の1つが日本の美をつねに追求してきたというものだ。川端がノーベル賞受賞後に行った講演の題名は「美しい日本の私─その序説」であった。川端と日本の美は切っても切れない関係にあるといえる。

 私は川端の作品を読むたびに作品に醸しだされる日本の美について意識はするが、それ以上に意識するのが登場人物たちの孤独である。私は登場人物たちの孤独をどうしても川端本人の孤独と結びつけて考えてしまう。

 川端は2,3歳で父と母を相次いで亡くし、さらに15歳までにたった1人の姉と自分の面倒をみてくれた祖父祖母も亡くしている。川端は15歳にしてほぼ天涯孤独の身となったといえる。

 川端は菊池寛に認められてから作家として頭角を表し、長ずるに文壇内で影響力を持ち始め、文壇の大御所とも呼ばれた。川端は芥川賞の選考委員もやり、また三島由紀夫を世に出したことでも有名である。川端は近代日本を代表する大作家であるが、やはり私はいつも川端を見るとき、その孤独を思いやってしまう。結局、川端の自死もその孤独の延長上にあったのではないかと思われてくる。

 「伊豆の踊子」は美しくそして哀愁をただよわせてくれる名作である。この作品は高校生のときに読み始め、それから何回となく読んだ。

 最初は伊豆の風景のことばかりに目がいってそれほど感じなかったが、繰り返し読むうちに主人公である一高生の「私」の孤独がしみじみと思いやられるようになった。「私」が物語の最後、踊子と別れ、船で東京へ帰ったとき、ぽろぽろと涙を流したのも何となく理解できるようになった。おそらく「私」にとっては踊子ははじめて血のつながりみたいなものを感じた他人だったのかもしれない。それは今まで味わったことのない母性みたいなものだったのだろう。それを恋愛感情といってしまえば、やはり「私」は踊子に恋していたのであろうか。

 「伊豆の踊子」は一高生の「私」がある夏伊豆半島を旅行したときに偶然出会った旅芸人の一家との交流を綴った物語である。旅芸人の一家は五人で、40代の女が1人、20代の男1人、10代の娘が3人である。男と一番上の10代の娘が夫婦、40代の女がその娘の親で、一番年下の娘が踊子で、男の妹である。もう1人の娘は雇いといった感じである。

 旅芸人は酒の席で芸を売る人たちで、芸者みたいな真似をする。14歳の踊子は坐って太鼓をたたく。踊子は普段三味線の練習をしている。

 「私」は踊子が気になった。踊子も「私」を意識するらしかった。踊子の義理の母親は踊子が「私」に気があることをからかった。踊子は男として「私」を意識したのか。踊子は14歳でまだ男を意識する年齢ではなかった。男より本活動の方に興味があった。一家の男と露天風呂にはいっているとき、遠くの風呂にはいっていた踊子が2人を見つけ、真っ裸のまま近づき2人に向かって手を振ったのは非常に印象的であった。

 旅芸人たちは立ち寄る村々で嫌われた。露骨に<旅芸人村に入るべからず>という立て札を立てている村もあった。所詮彼らは川原乞食であったのだ。一般人とは別の人種と思われていた。

 旅芸人の一家は自分たちの意志で旅芸人になったのではなかった。「私」には彼らの運命がそうさせたように思われた。「私」は彼らと自分との運命を重ね合わせたのである。旅芸人の孤独と自分の孤独が引き付けあい、それが昇華され「私」と踊子との恋ともいえない親しみの感情が湧き上がったようである。

 それにしても踊子を描写する筆は見事に尽きる。踊子が笑ったり、悲しんだり、恥ずかしがったりする表情がすばらしい。目の前に踊の姿が髣髴するようだ。踊子はまだまだ少女なのだ。

 「私」は下田で彼らと別れて東京へと戻った。

 今回「伊豆の踊子」を読み直して、やはり川端は大作家だと再認識した。物語の最後、踊り子は1人寂しく波止場まで「私」を見送りにくる。その踊子の何ともいえない寂しい表情の描写は私の胸を強く打った。

 やはり「伊豆の踊子」はノーベル賞作家の書いた名作である。

「田園の憂鬱」

 日本には長らく文壇とよばれた社会があった。いわゆる文学者たちによって構成される村社会である。誰が意図的に作ったというわけではなく、自然発生的にできあがったものである。文壇は隠然たる力をもっていた。文壇に認められないとはすなわち文学者として生きていけないことでもあった。

 それでは誰が文壇を仕切っていたかというと、特定の人が権力をもって牛耳っていたというわけではない。ある意味、鵺(ぬえ)みたいな社会かもしれない。厳然たる支配者はいないけれど、文壇には大御所なるものはいた。川端康成志賀直哉などは大御所の最たるものであった。ただ、川端にしろ志賀にしろ、自分で文壇の大御所になろうなどと思ったわけではない。回りが大御所に仕立てあげたのである。理由はやはり彼らの書く作品が誰もが認めるすぐれたものであったからである。

 川端賀以外にも文壇の大御所と呼ばれた人はいる。その1人が佐藤春夫である。佐藤には門弟が3000人もいたという。太宰治もその1人であったらしい。

 佐藤は慶応大学を中退している。永井荷風に師事し、そして長いこと三田文学に対しては強い影響力をもっていた。三田文学から文壇にデビューした江藤淳は、デビュー間もない頃書いた「永井荷風論」を佐藤から激賞された。江藤は大学で文学論の授業をしているとき、よく佐藤春夫の口真似をした。

 私は小説を読み始めた頃、川端康成志賀直哉が文壇の大御所と呼ばれることには納得したが、佐藤春夫が大御所だといわれても腑に落ちなかった。佐藤の書いた小説といえば「田園の憂鬱」「都会の憂鬱」ぐらいしか知らなかったからだ。私は佐藤は小説家というより詩人だと思っていた。あの<さんま、さんま、さんま苦いか 塩つぱいか>はあまりにも有名である。

 私は「田園の憂鬱」「都会の憂鬱」を読んでみた。ほとんど理解できず、何も感じなかったといってよい。私には佐藤春夫は詩人として存在していた。

 30年振りかで「田園の憂鬱」を読み返した。読んだあとたいへん不思議な小説であると感じた。同時に詩人らしく繊細な文章だとも思った。

 この小説には物語らしいものは何もない。青年とその妻が2匹の犬と1匹の猫を伴なって東京の郊外の田舎に引っ越してくる。住む家は農家の一軒屋である。かなり傷んでいたが、何とか内装をほどこして住めるようにした。家の回りは田んぼ林で囲まれている。田園地帯の真っ只中である。

 青年は都会を捨ててきた。彼は何とか田園で生きようとするが、元女優の妻は都会へ帰りたがる。2人の過去はほとんど語られない。作品全体を通して語られるのは自然であり、青年の孤独倦怠憂鬱懊悩である。彼がなぜ苦しむのかもよくわからない。ある意味青年は発狂寸前であったのかもしれない。緊張感漂う文章によって、青年の感性が研ぎ澄まされているのがよくわかる。

 青年は自分で植えた薔薇(そうび、バラのこと)に異常と思えるほどに関心を示す。自分の存在と薔薇の存在が一体化したようだ。薔薇は青年の存在を象徴しているのかもしれない。

<おお、薔薇、汝病めり!>と何度となく口ずさんで、一応物語は終わる。

 人は若いとき、理由もなくもがき苦しむことがある。「田園の憂鬱」は若い人間が陥る普遍的な憂鬱な状況を描いた青春小説といえるかもしれない。青年が悩む。これは自然の摂理である。

 病んでいる青年にとっては、あの美しいバラも病んで見えるのだと、壮年になった私は実感した。

「蜘蛛の糸」「杜子春」「トロッコ」

 芥川龍之介というと、すぐ暗いイメージが浮かぶ。坂口安吾は、芥川の死後、芥川の書斎を訪ねたとき、そのあまりの暗さに辟易したという。

  芥川の晩年の作、「歯車」「河童」などの作品は暗さの象徴みたいなもので、読んでいてやり切れない気持になる。同じ自殺した作家太宰治と芥川は違う気がする。芥川は追いつめられ、もう逃げ場がなくなって死んでしまった感がある。太宰には追いつめられたという感じはない。

 芥川の晩年を振り返ってみると、芥川の師匠夏目漱石の晩年とどこか似ているような気がしてならない。漱石晩年の作品、特に「行人」以降の作品を読むと気が滅入る。答のない問題を一生懸命解こうとして、どうどう廻りしているような漱石が浮かぶ。芥川も同じような答のないテーマに挑んで、最後は疲れ切って、こちらは自ら命を落とす。これを芸術家の宿命といったら何と芸術家とは哀れな生き物であろうか。

 漱石も芥川もまぎれもなく大作家であり、私はこの2人の作家の作品は大がつくほど好きである。だが、もし2人の作家が生きていたら、一言だけ苦言を呈したい。何故、初期作品に見られるユーモア機知に富んだ健康的な作品を書き続けなかったのかと。

 私は芥川の作品の中で好きな作品を5つあげろといわれたら、「鼻」「芋粥(いもがゆ)」「蜘蛛の糸」「杜子春」そして「トロッコ」をあげる。これらの作品が何故好きかというと、やはり、ユーモアと機知に富み、倫理感も非常に健康的であるからだ。

 芥川の真骨頂は、幅が広く深い知識をベースにして、人間の心理の襞(ひだ)をするどく洞察した描写にあると思っている。この意味では「鼻」は最高傑作である。そして「鼻」に劣らず傑作なのが今回とりあげる名作「蜘蛛の糸」「杜子春」「トロッコ」である。

 この3つの作品は少年少女向きに書かれた年少文学といわれているものだ。ところが大人が読んでもたいへん感動させられる小説である。私は大人になってからでも、ことあるごとにこの3つの作品は読み続けた。「蜘蛛の糸」「杜子春」は人類普遍のテーマが詰まっている。そのテーマとは「愛」である。この場合の「愛」とは「自分を犠牲にして他人を思いやる」ことである。これはキリスト教の基本理念でもあり、この「愛」はあの世界の文豪トルストイドストエフスキーの作品の中心テーマでもある。

 ここにおもしろい話がある。「蜘蛛の糸」のストーリーは仏典にのっていると思われているが、実際には日本に伝わった仏典には「蜘蛛の糸」にある内容の話はない。芥川はアメリカで出版された『カルマ』という本の中に出てくる「蜘蛛の糸」<The Spider Web>からその材をとっているのである。その内容は芥川の「蜘蛛の糸」と同じである。

 『カルマ』に注目したのは芥川ばかりではない。ロシアの文豪トルストイも注目し、「蜘蛛の糸」を翻訳し、ロシアに紹介した。ところが、意外にもロシアの民話の中に「1本の葱」といって、「蜘蛛の糸」と似たようなのがあったのである。内容は蜘蛛の糸を葱に変えたものである。この民話に目をつけたのはドストエフスキーで、彼は「白痴」「カラマーゾフの兄弟」の中でこの話を登場させている。「蜘蛛の糸」のテーマとドストエフスキーの作品のテーマと一致するのである。そのテーマとは先に述べた「他人のために自分を犠牲にできるか」である。

 わかりやすい文体で、おもしろく子供たちに教え諭すような「蜘蛛の糸」が実は世界文学レベルの小説だったのである。「蜘蛛の糸」を読んで感動した人はその作品に隠された世界文学性を無意識に感じとったからではないだろうか。

 「杜子春」も同じようなテーマである。「杜子春」においては杜子春の両親が「愛」を示した。彼らは息子のために自分らを犠牲にし、そして、杜子春は彼らのために、自分の願望を放棄する。この杜子春の行為を、芥川は正しい生き方として肯定するのである。健康的な芥川の顔が垣間見えてくる。

 「トロッコ」も「愛」をテーマにした作品である。この場合の「愛」とは家族との絆という意味での「愛」である。

 人間はどのようなとき幸福を感じるのか。それは、孤独でない状態、すなわち誰かに「見守られている」状態のときである。逆説ながら自由は誰かに見守られているときに感ずるのだ。この感覚は幼い子供の場合顕著にあらわれてくる。両親の目の届くところでは、子供は自由にのびのびと動き回る。そのとき、彼らはつねに無意識のうちに母親が自分を見ていることを感じとっているのである。しかし、遊びに夢中になると子供たちは瞬間的に母親の存在を忘れる。遊びに飽きると同時に母親の存在を意識し、母親の存在を感じないと、泣き出すのである。映画の名作「禁じられた遊び」はこの子供の心理が哀しいくらい見事に描かれている。

 この子供の心理を芥川は「トロッコ」の中で、これ以上うまく描くことが出来ないというくらいうまく描いた。何故、良平は家に着いたとき、それまで我慢していた涙を流し、大泣きに泣いたのか。彼は生まれて初めて孤独を味わったからだ。

 トロッコは良平にとって何物にも代えがたいおもちゃであった。そのおもちゃと遊びたくて、彼は無意識のうちに、家族の視線を感じない境界を通り越して遠いところに来てしまった。このことを自覚してから良平は不安になる。その不安はどんどん増幅して不安が極大点に達したとき、やっと彼は家にたどり着く。と同時に泣き出すのである。

 芥川は「トロッコ」において、人間と人間のつながりの尊さを謳いあげているのである。

「鼻」「芋粥(いもがゆ)」

 日本の古典の中で一番おもしろいものといったら私は躊躇なく「今昔物語」をあげる。「今昔物語」は上は天皇家から下は乞食にいたるまで貴賎関係なく種々の人間の実相を描いていて、かれらの息遣いが聞こえてきそうなくらいリアリティに富んでいる。

 「今昔物語」は世俗の話を集めたものだと思いきや、実は仏教を紹介する物語であった。「今昔物語」は大きく、天竺(インド)、震旦(しんたん、中国のこと)、本朝(日本)部にわかれており、天竺部の最初から延々と仏教にまつわる話が語られる。本朝部にはいっても仏教話が続き、やっと世俗話になる。私たちが知っている「今昔物語」の話というのは「今昔物語」全体からみるとほんの一部の世俗話の中にはいっているものである。

 私はある時期「今昔物語」に没頭した。そのときある話の注に、これは芥川龍之介の何々という作品の素材になったものであると書かれてあった。芥川の短編の多くが「今昔物語」を素材としていることは無論知っていたが、「今昔物語」を手にとってそれを実感できた。私は「今昔物語」を措いて、芥川の作品を読み込んだ。

 私は「鼻」、「芋粥」を読んで、深く考えさせられた。この2作とも「今昔物語」を素材としてはいるが全く別の物語に仕上げられている。「今昔物語」の事実を踏まえているが、芥川によって緻密な細工が施されている。

 「鼻」、「芋粥」には共通のテーマがある。そのテーマとは「目的を遂げたときに起こる空しさ」といったようなものである。

 禅智内供の鼻は池の尾で知らない者がないくらい有名である。長さが、5,6寸あって上唇の上から顎までさがっている。弟子の誰かに鼻を持ち上げてもらわなければ食事ができないくらいであった。いろいろと手をつくすが鼻は小さくならない。ところが弟子の1人が京の医者から鼻を短くする方法を教わり、それを内供の鼻に適用すると鼻は小さくなった。

 内供の鼻は短くはなったが、意外のことに、回りのものは笑わなくなるどころかかえってより笑うようになった。内供は考え、そして次のように結論づける。

 <人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸におとしいれて見たいような気にさえなる。そうして何時(いつ)の間にか、消極的ではあるが、或敵意をその人に対して抱(いだ)くような事になる。>

 内供の短くなった鼻はまたもとのように長くなってしまった。そのときなぜか内供はほっとした。

 人間の心理を見事に洞察した描写である。ドストエフスキー的ともいえる。「鼻」は大正5年(1916年)、芥川がまだ東京帝大の学生のときに書かれた作品である。とても大学生が書いたとは思われない。芥川の老成ぶりがうかがえる。この作品は夏目漱石に激賞された。

 「芋粥」も人間の心理の奥を衝いた作品である。

 摂政藤原基経(もとつね)に仕えている某(なにがし)の五位という侍がいた。五位はうだつのあがらない人間で、同僚からも冷淡に扱われ、あげくは子供からも馬鹿にされるしまつである。同僚からいたずらをされたとき、五位は思わず<いけぬのう、お身たちは>と口走る。この言葉が私にはえもいわれぬ悲哀をともなって響いてくる。

 この五位には1つの願望があった。それは、宴会の残り物としてしか食べられない芋粥を腹一杯食べたいということである。

 ひょんなことから藤原利仁(としひと)に五位は敦賀に連れていかれ、利人の舅から歓待を受ける。朝食の膳のとき、五位の前には芋粥がなみなみとつがれた大きな器がおいてあった。五位は半分も食べられなかった。

 「鼻」、「芋粥」ともに、「今昔物語」をベースに全く新しい空間を創りあげている。新しい空間を虚構といってもよい。ある事実に虚構という修飾を施して芸術作品に仕上げる、芥川の真骨頂はこれにつきると思う。

 それにしても芥川は早熟である。やはり天才だったのか。20代半ばの人間が「鼻」、「芋粥」にみられるような人生観をもつことができるのだろうか。

 五位が思わず口に出す<いけぬのう、お身たちは>は、私には人生の底の底を見た人間しか出されぬ言葉としか思われない。ところが、人生の底の底を見た「鼻」、「芋粥」にしてもユーモアがあって非常におもしろい。そのユーモアを支えているのはやはり芥川の教養なのである。

 「鼻」、「芋粥」のように、教養を土台にユーモアのある虚構された物語をずっと書き続けてほしかったというのが、私の芥川に対する切実な思いである。

「地獄変(じごくへん)」

 作家は芸術家である。当たり前のことだが、実際にどれだけの作家が自分を芸術家だと意識して作品に挑んでいたのであろうか。夏目漱石森鴎外の作品は芸術作品だと思うが、はたして彼らは自分のことを芸術家だと思っていたのかどうか。

 ところが、中には芸術並びに芸術家というものをひどく意識した作家がいた。芥川龍之介である。谷崎潤一郎も芸術をかなり意識している。この2人が芸術について論争するのも当然のなりゆきであったのかもしれない。

 芸術とは何かと改めて考えてみると、何だろうと思う。それと同時に芸術家とは一体何ものなのかと考えてしまう。芸術があって芸術家があるのか、それとも芸術家があって芸術があるのか。

 なぜこんなことを思うかというと、芥川龍之介の自殺を思うからである。芥川自身、芸術と芸術家とをはっきりと分けて考えていたら、彼はおそらく自殺はしなかったのではなかろうかと思ってもみる。。

 これと同じことは三島由紀夫についてもいえるのではなかろうか。芸術家は芸術作品を生み出す人間のことだと割り切って考えれば、三島はあのような死に方はしなかったのではなかろうかと思うことがある。

 芸術家という人種は自らの死でもって何かを表現しなくてはならないものであろうか。私は若い頃は、芸術家とはある特殊な畏れ多い人間であると思っていたが、今では、芸術家とは芸術を創る人間のことだと単純に考えている。作家の創造する作品と作家の実生活とを関連づけて考えることに意味があるとは思ってはいない。

 それでは芸術作品とは何なのか。やはり感動を与える作品のことであると思う。これは芥川も谷崎も一致した意見である。

 芥川の「地獄変」を読むたびに私は芸術と芸術家とは何だろうかとよく考えた。はたして芸術家は多くの人を心の底から感動させる作品を創るために、自分の生活そして自分の回りのものを犠牲にすることができるのであろうか。

 「地獄変」は芥川の王朝物といわれる小説である。もとになっている話は『宇治拾遺物語』巻三「絵仏師良秀(よしひで)家の焼くるを見て悦(よろこ)ぶ事」である。

 堀川の大殿様は絶大なる権力と富とをもった人である。その大殿様でももっていないものがあった。地獄の絵である。大殿様は高名な絵師である良秀に地獄の絵を描いた屏風を作成することを命じた。

 良秀の娘は大殿様の屋敷に小女房として仕えていた。彼女はやさしく美人であった。陰険といわれていた良秀は娘を気違いのようにかわいがっていた。

 大殿様からのご用命とあって、良秀は早速地獄絵の制作にとりかかった。もともと気難しい性格の良秀はそれ以来いよいよ気難しくなった。良秀は妄言を吐くようになり、そして弟子たちには不可解な行動をするようになった。それはまるで気が狂った人間の所業に見えた。あるとき、弟子の1人を裸にし、鎖をその裸身に巻きつけた。弟子は苦しんだ。その姿を良秀はじっと見ていた。

 地獄の絵が完成に近づいたある日、良秀は大殿様にある頼みごとをした。それは絵を完成するにあたって実際に燃え盛る牛車にいる上臈(じょうろう)の苦しむ姿を見たいということであった。

 大殿様は快く承諾した。大殿様は実際に女の乗った牛車を燃やそうとしたのである。それは人里離れた大殿様の別邸で行われた。屋敷の庭には牛車が置かれ、その中には罪人の妻が乗っていた。大殿様はお側のものにそれを燃やすよう命じた。

 車は猛火を放って燃えた。中から悶え苦しむ女の表情が見えた。その女の表情を見たとき誰もが驚いた。その女は誰あろう、良秀の娘であった。良秀は燃え盛る車の中で、苦しみぬいている娘の姿を満足そうに見ていた。

 良秀は見事な地獄絵を描いた。その絵を描き終わった翌日良秀は自殺した。

 実は、私だけでなく、多くの読者は最後に良秀が自殺したことにほっとしたのではなかろうか。当然、自殺のことは原典にはない。全くの芥川の創作である。もし、自殺しなければ、良秀はもはや芸術家ではなかろう。

 芥川は最後に芸術家を超えた人間らしさを求めたのであろう。

「破戒(はかい)」

  「破戒」を再び読んだ。最初にこの小説を手にとったのは、大学生のときである。そのときは読んだ後、やる方ない憤りを感じた。この日本にこんな非人間的かつ非人道的な因習が、それも明治の世に存在していたと認識して唖然としたものだ。

 私は川崎で生まれ育った。そのせいか部落問題のことは大学生になるまで知らなかった。東京並びに東京近郊で生まれ育った人たちも大方私と同じように部落問題には関心がなかったというより知らなかった。あの文豪坂口安吾でさえ、京都に住んで初めて、部落問題の根深さを思い知ったほどだ。安吾は新潟で生まれ、東京で学生生活をし、そのまま東京に住むようになった。岡林信康(日本のフォークの神様である)の名曲「手紙」が部落問題を扱った曲であることも知らないで、中学生の私は口吟んでいたのだ。そんな私にとって、やはり「破戒」は衝撃的であった。

 藤村の作品の中で、初めて読んだのが「破戒」であった。そして、後年、私は藤村の作品に親しむようになり、かれの生き方そのものに興味をもつようになった。今では、私は藤村その人に一種の畏れのようなものを感じている。藤村は狂気と忍耐の人であった。あるときは気違いのように本能のままに行動し、あるときは宗教家のようにじっと耐える。こんなイメージを私は藤村に対してもっている。正直言えば、「破戒」以上に衝撃的だったのが「新生」である。この作品を書いている藤村に狂気を感じ、そして身震いした。逆に「家」を読んだときにはひたすら忍耐する藤村を思った。

 若い頃読んだ「破戒」は私にとってはあきらかに社会小説で、非人間的な因習を告発する書であった。「破戒」が社会小説の一面をもっているのは誰もが否定できない事実である。今回、「破戒」を読み直してみると、社会を告発する社会小説のイメージは残したまま、小説いわゆる物語としてよくできていると感じた。「破戒」が出版されたのは明治39年(1906年)で、それから現在まで1世紀以上経っている。この長い期間、大勢の人に読み継がれてきたのはこの物語性があったからではないのか。物語にはモチーフがある。「破戒」の場合のそれは、思春期の青年の苦悩、それも宿業的な運命を荷わされた青年が苦悩しているということだ。この苦悩はシェイクスピアの「ハムレット」、ドストエフスキーの「罪と罰」のラスコーリニコフの系譜に連なるものである。ハムレットは実の父親を伯父に殺され、そして実の母親もその伯父に奪われたという宿命をもっている。ラスコーリニコフは、偉大な思想のもと金貸しの婆さんを殺したとき、思いもかけず婆さんの妹のエリザベートまで殺してしまう。ハムレットにしてもラスコーリニコフにしても悩むのが仕事のような若者だ。

 「破戒」が「罪と罰」を下地にして書かれたことはつとに有名である。特に、風間敬之助一家はマルメラードフ一家そのものといってよい。敬之助の先妻の子である長女のお志保はマルメラードフの先妻の子ソーニャと重なっている。2人とも継母にいびられ家族を救うために、体を売るはめになる(ソーニャは娼婦に、お志保は寺に養女に出されるが寺の義父の住職に手ごめにされる)。敬之助の性格、行動パターンもマルメラードフそのものである。

 「破戒」と「罪と罰」の類似は登場人物やシチュエーションだけではない。決定的な類似がある。それは「告白」である。ラスコーリニコフにとって「告白」は自分が殺したということであった。丑松は、自分が部落出身であるということである。

  藤村にとって、いや丑松にとってか、部落出身であると告白することは、自分が殺人者であると告白することと等しかったのである。

  なぜ、これほどまでに「告白」に重きをおくのか。

 丑松は作られた人間ではあるが藤村の分身とも思える。藤村自身、丑松に仮託して「告白」したかったのだ。藤村は自分の背負う宿命を「告白」したかったのだ。その宿命とはとりもなおさず、島崎家の血である。

 藤村が「夜明け前」を書くことによって、作家としての掉尾(とうび)を飾るのは必然であったように思える。「夜明け前」の主人公は、藤村の父親がモデルになっているが、藤村その人としても見ることができる。主人公は最後は狂い死にするのである。

 宿命的な運命を荷わされた人間が告白するということ、これこそ藤村にとって小説を構築する上で重要なモチーフであったのだ。そのため、物語は周到に、そして綿密に準備されていく。

 「破戒」にしても「罪と罰」にしても、その文学的価値を高めているのは救いがあることだ。特に「破戒」においては告白したあと、丑松はアメリカのテキサスに希望をもって人生再出発の途につく。そして愛するお志保とも結ばれることになる。「破戒」が読むものに勇気を与えるのはこの結末があるからだ。

  見方を換えれば「破戒」は悩み多き青年の心理を描いた青春小説ともいえなくもない。希望を失い、行き場がなくなり、自殺を考える。それでも心の底では生きていたいと思う丑松の心理状態は、何も丑松1人だけのものではなく、ネバ河に架かる橋の上で思い悩むラスコーリニコフもそうであるし、多くの青少年が1度は経験する心理状態でもある。

 「破戒」が現代でも、たくさんの人の共感を呼ぶのは、悩み苦しみながら、生きたいと痛切に思う気持には時代の差、環境の差はないということだ。

「夜明け前」

 「夜明け前」を読むまでは、私は島崎藤村を自然主義文学の1大家としか思っていなかった。だが、「夜明け前」を読んだあとは、藤村は私にとって巨人になったといってよい。それぐらい「夜明け前」は圧倒される作品であった。

 正直、初めて「夜明け前」を読んだときは違和感を覚えた。それまで読んだ藤村の作品とはだいぶ違っていたからである。藤村は自己の内面、並びに自己を中心とした身内のことをこれでもかというくらい深く追求した作品を書いていた。「破戒」、「春」、「新生」、「家」などはその代表である。これらの作品は重くそして深いが、主人公を取り巻く歴史の流れ、そして主人公を動かす思想といったものには触れなかった。

 「夜明け前」は幕末から、明治国家もようやく完成されつつある明治19年までを扱っている歴史小説である。私にはさしずめ重厚な大河小説の感がした。

 藤村は「夜明け前」を「中央公論」に第1回を載せてから約7年の歳月をかけて連載し続けた。作品の想を起こしてから脱稿するまでの期間を考えると藤村の文字通り畢生の作品であり、そして、最後の長編小説である。

 巨人島崎藤村は昭和18年の夏、風が涼しいの言葉を最後に永眠した。数え年で享年72歳であった。

 「夜明け前」の主人公は青山半蔵である。舞台は中仙道の宿の1つ馬籠(まごめ)である。青山半蔵は藤村の父と藤村自身がモデルであるといわれている。

 青山家は馬籠村に代々続く庄屋本陣問屋を兼ねた旧家であった。半蔵は父吉左衛門から受け継いで青山家の当主となる。

 物語は嘉永6年の黒船来航から始まり、明治19年、半蔵の死で終わる。

 馬籠村は中仙道の重要な宿であり、青山家はその村のトップの存在であった。村人の世話、そして役人との交渉は青山家の仕事であった。

 幕末から幕府崩壊まで、馬籠の宿は多くの歴史的事実を目撃した。孝明天皇の妹である皇女和宮が将軍家茂に降嫁するため京都から江戸に向かうのに、一行は中仙道を使った。馬籠を通過する行列は、それまでのいかなる大名の行列より長かった。馬籠村を通過するのに数時間もかかったという。この行列の光景は半蔵一家の人たちの目に永久に焼き付けられた。

 水戸浪士たちの天狗党も馬籠に来た。攘夷を旗印にした天狗党の浪士たちは水戸から京都へと上るのに、中仙道を西に向かい馬籠の宿に逗留する。本居宣長、平田篤胤に心酔している国学の徒であった半蔵は、幕府から賊徒の扱いを受けている天狗党の浪士たちに思想的に共鳴する。

 幕府崩壊時には東征軍いわゆる官軍が馬籠を通過する。そして、明治維新とともに馬籠を通過する人間は減り、馬籠の宿も衰退していく。明治になり、半蔵も村の要職をはずされる。彼は教育に活路を見出そうとした。

 半蔵は新しい時代である明治にたいして心の底から期待をしていた。それは明治は王政復古のもとに古(いにしえ)に復(かえ)るからである。自然(おのずから)に帰る。これが本居宣長が目指すことである。自然とは「大和言葉」が支配する世界である。半蔵は自然と明治を重ねたのである。

 明治の世は王政復古といいながら半蔵の期待を次々に裏切っていった。明治の世は急速に近代を目指したのである。国学は無残に廃れていった。「大和言葉」のために戦っていった先輩たちのことを思うにつけ半蔵の胸は痛んだ。

 半蔵は心身ともに疲れ果て、いつしか精神に異常をきたした。彼は菩提寺の万福寺に火をつけたのである。半蔵なりの廃仏毀釈だったのかもしれない。これよりのち、半蔵は座敷牢に入れられ、狂死する。王政復古を謳った明治は半蔵には言葉だけに過ぎなかったのである。

 この長編が大作なりえたのは平易な文章によってかかれたことが大きい。美しい日本語のお手本のような文章で明け前」は書かれている。そして、平易な文章で書かれたこの作品を格調高くしているのは作者の目の置き所である。作者の目線は下から上に向いている。庄屋や村人を含めた人々の動きから歴史の流れを見ているのである。薩長の下級武士によってなされた革命としての明治維新の視点はこの作品にはない。

 「夜明け前」は人々の日記をもとに書かれた。藤村は人々の声に耳を傾け、そして彼らの声から幕末明治維新という歴史の大きなうねりを書いたのである。

 私は「夜明け前」を再読して、この作品が20世紀世界文学の代表作の1つであることを確信した。

暗夜行路(あんやこうろ)」

 小説の神様といえば志賀直哉である。漱石も鴎外も小説の神様とはいわれない。彼らは文豪と呼ばれる。

 大学生のとき、「小説の神様」と神格化された志賀直哉を敬遠して読もうとはしなかった。若い私は~の神様は眉唾ものだと思うぐらい元気で無知だったのかもしれない。

 実は、私がなかなか志賀直哉の作品に手をださなかったのには理由がある。私は一時太宰治に入れ込んでいて、神を嫌う私が太宰を神の如く崇め奉っていたのである。その太宰が「如是我聞(にょぜがもん)」で志賀直哉に食ってかかっていたのを私は読んだ。志賀が太宰の「斜陽」にけちをつけたからだ。「斜陽」は没落貴族の話だが、志賀は太宰の貴族に対する無知を責めたのだ。太宰はそれまでも「津軽」などで志賀のことはかなりくさしていたが、「斜陽」の件にはよほど腹が立ったらしい。猛然と志賀に食いついた。

 そんなわけで、私はなんとなく志賀の作品を読もうとは思わなかった。しかし、読まないわけにはいかなかった。理由は、漱石が志賀を評価していたからだ。

 「小説の神様」といわれているけれど志賀の長編小説は「暗夜行路」だけである。すぐ「暗夜行路」には手を出さなかった。定番の「城の崎にて」「小僧の神様」から読みはじめた。読んで思わず「うまい!」と心の中で叫んだ。それから志賀の作品を読み漁った。いつしか太宰のことは忘れていた。神様と呼ばれてもしょうがないなと思うようにもなった。そして最後に読んだのが「暗夜行路」であった。奥が深く、読みやすくいい小説だと思った。それ以来ことあるごとに「暗夜行路」を読み直した。仕事で尾の道を新幹線で通過するとき、何度、降りて尾の道を散策しようと思ったことか。私にとって尾の道は林芙美子のゆかりの地ではなく、志賀直哉ゆかりの地である。

 「暗夜行路」は志賀が17年もかけて書き上げた長編である。何度も中断して書き上げたものだ。芸術作品に限っていえば、かけた時間と作品の出来ばえはかならずしも比例するものではないが、「暗夜行路」の場合は時間をかけたことだけのことはある。

 「暗夜行路」は前編後編から構成されているが前編後編では作品のモチーフは劇的に変化している。前編はいわば「能動的行動的肯定的」で、後編は「受動的静的否定的」である。飛行機に対する時任謙作の気持をみるだけで、謙作の劇的なる心境の変化が読み取れる。

 前編では、謙作は飛行機を人類の叡智の結晶として評価する。謙作は人間の理性を尊重し、深い信頼を置く。そして、社会の進歩は人類の理性的な営みによっていかようにもなると前向きに捉える。後編では、謙作は飛行機を否定し、自然が前面にでてくる。

 人間の理性か、それとも自然か。この2つの対立概念の上に「暗夜行路」は成り立っているのである。どこか漱石の描く世界に似ているが。

 理性を重んじていた謙作には、実の母の不義は想像を超えたところにあった。物語の冒頭、薄汚い老人が<オイオイお前は謙作かネ>といって、幼い謙作に声をかけるのは象徴的である。謙作は母と祖父との間にできた子であったのだ。理性の人謙作には耐えられない。これが原因で謙作は意中の女性との結婚ができなかった。彼は苦悩し、祖父の血を受け継ぐ如く、放蕩の世界にと沈んでいく。

 因果は巡るである。後編において、謙作が自ら望んで結婚した妻である直子も母と同じような不義を犯してしまう。謙作は苦悩を理性で乗り越えようとはしなかった。自然に溶け込むことによって解決しようとしたのである。彼は大山へとおもむき、自然のふところに飛び込んだ。

 物語の最後、謙作は大腸カタルになり死線をさまよう。急きょかけつけた直子は、

 <助かるにしろ、助からぬにしろ、兎に角、自分はこの人を離れず、何所(どこ)までもこの人に随(つ)いて行くのだ>

 と思う。志賀は間違いなく直子にこの思いをさせたくてこの長編を書き遂げたのである。こう直子が悟ったとき、謙作の中において、愛する母の不義も消え去ったのである。

 私は志賀直哉のすごさを感じる。それは、漱石がもがき苦しんだテーマを志賀が軽々と飛び越えたことである。自然に溶け込もうとした漱石はそれが果たせなかったのである。志賀は溶け込んだのである。私は「暗夜行路」を読みながら、トーマスマンの「魔の山」に匹敵するぐらいの教養小説だと思った。

 今回「暗夜行路」を読み直して新しい発見をした。それは、謙作が母と祖父の子であるという設定が、志賀が讃岐の屋島の旅館に泊まったとき考えつかれたということだ。屋島は私には忘れられない土地である。私は6年間高松に住んだ。屋島にはしょっちゅうというくらい散歩に行った。夕日が西に沈むころ、瀬戸内海を背景とした屋島は夕映えのなかで威容を誇る。その美しさといったらなかった。その屋島の姿を見ると、静寂の中から800年という悠久の時を超えて、平家源家の戦いの雄たけびが聞こえてきそうであった。私は凝然として屋島の姿を見続けた。志賀直哉も見たに違いない。

 志賀直哉と私は意外なところで接点があったのだ。

「網走(あばしり)まで、清兵衛(せいべい)と瓢箪(ひょうたん)」

 志賀直哉は明治16年(1883年)に生まれ、昭和46年(1971年)に死んだ。88歳の大往生であった。

 志賀の文学活動の期間は長かったが、長編小説は「暗夜行路」1作しか書いていない。他は中編の「和解」を除けば短編ばかりである。志賀直哉は短編作家といってよかった。 志賀の短編は名作ぞろいで、志賀は小説の神様と崇められた。数多くの文学者から畏敬され、その文章は名文の見本となった。谷崎潤一郎三島由紀夫などの作家が書いた文章読本にはかならず志賀の作品がとりあげられた。小林秀雄も志賀に師事した1人である。

 とにかく、日本文学においては短編の名手、そして文章の達人といえば志賀直哉と相場が決まっていた。

 私が初めて志賀の作品に接したのは高校生のときで、「網走まで」であった。この作品は教科書に載っていた。心打つ作品であった。読んだあと長い間余韻が残った。

 志賀の作品を本格的に読み始めたのは「暗夜行路」を読んでからである。私は「暗夜行路」を読んで志賀のファンになっていた。志賀の作品はどれも文章が簡潔でひきしまっており、そして読みやすかった。彫琢された文章とは志賀が書いたような文章をいうのだと思った。

 志賀の活動期間は大きく3期に分けられる。第1期は小説を書き始めてから大正3年までである。ちょうど多感で悩み多い青春期にあたる。この期に書かれた作品の中では私は「網走まで」「清兵衛と瓢箪」が特に好きである。志賀の作品は自伝的なもの、見聞を題材にしたもの、そして想像をたくましくしたものなどがあるが、この2作は見聞を題材にしたものである。見聞を題材にしているとはいいながらその奥には志賀の現実認識そして弱者にたいする共感が滲んでいる。

 「網走まで」は語り手の「自分」が宇都宮の友人のもとへ行くとき、汽車の中で見たことが描かれている。「自分」は午後4時発の青森行きの汽車に乗った。混雑はしていたけれどうまく席をとることができた。同時に1人の男の子を連れ、1人の赤子を背負った母親が乗り込んできて、「自分」の席の隣に坐った。母親は26歳ぐらいで色白で髪の毛の少ない人であった。手を引かれてきた子供は7歳ぐらいで顔色の悪い、頭の大きな妙な子であった。癇癪の強いわがままな子に見えた。母親をひどく困らせる存在であるのが「自分」にはわかった。実際、宇都宮に着くまで、その子は母親を煩わせていた。

 親子3人の目的地は北海道の網走であった。網走に到着するまでは優に5日間はかかるはずであった。母親は汽車の中で2通の手紙を書いた。「自分」が宇都宮で降りるとき、彼女は「自分」にその手紙をポストに投函することを頼んだ。1通は男宛てで、1通は女宛てであった。

 「網走まで」は汽車の中での数時間のことを描いているが、この作品には親子3人のこれからの長い苦難の人生が暗示されているようだ。短編というより大長編を読んだあとの気分にさせてくれる小説である。

 「清兵衛と瓢箪」も子供の将来を暗示するような短編である。

 清兵衛は何よりも瓢箪が好きであった。1日中瓢箪のことばかり考えていた。もらう小遣いは瓢箪のために使われた。ところが、授業中、瓢箪をいじっているのを先生に見つかった。先生は怒り、そして清兵衛の家に来て母親にひどく注意をした。これが父親の耳に入り、清兵衛は瓢箪と決別することとなった。

 清兵衛が学校で見つけられた瓢箪は学校の小使に渡っていた。小使はそれを古道具屋へ売りに行った。それは小使の4ヶ月分の給料にあたる50円で売れた。古道具屋はその瓢箪をさらに地方の金持ちに600円で売った。

 清兵衛は現在は瓢箪から離れ、絵に夢中になっている。父親はまだ絵をやめろとはいっていない。

 父と対立しながらも清兵衛が将来優れた画家になることが暗示されている。

 志賀の短編を読んですぐ気がつくことだが、志賀は子供のことをよく書く。「網走まで」「清兵衛と瓢箪」以外にも子供が中心人物の作品はたくさんある。子供を書くことで、志賀は現実そして理想を表現しようとしたのであろう。

「和解」

 明治時代の最大の公害事件と言ったら渡良瀬川の足尾銅山鉱毒事件であろう。

 志賀直哉は18歳のとき、この鉱毒事件の被害者の農民視察旅行に出かけようとしたが、父親の直温(なおはる)に強く反対された。直温が反対したのは、直温の父すなわち直哉の祖父が古川財閥創始者の古川市兵衛と共に足尾銅山を開発したからである。また、直温自身が銀行家で経済界で重きをなしていたからでもあった。

 青年直哉は正義感が強く、虐げられた弱者である農民たちに深く同情したのである。このときの言い争いが端緒となって直哉と直温親子は対立するようになった。

 最初は古い世代と新しい世代との思想的対立といった様相を呈していたが、だんだん思想的なものから感情の入り混じったどろどろとした憎しみ合いと言ってもいいような複雑なものになっていった。2人の対立は17年ばかりも続く。

 直哉の唯一の長編小説「暗夜行路」はもともと「時任謙作」というタイトルで想が練られたものだ。「時任謙作」で直哉は父と子の思想的葛藤を書くはずであった。ところが書こうとしている間に直哉自身父親と和解してしまって、書く気力が失せてしまった。直哉は他の新しい主題を求め、それが「暗夜行路」へと結実した。

 志賀直哉の文学を語るとき、直哉と父親との不和を措いて語ることはできない。直哉はたくさんの小説に父親との確執を書いている。直哉が尾道に行ったのも父親の許から離れて自活するためのものであった。2人の不和は長く続くのだが、19172人はあっさりと言っていいくらい気持ちよく和解する。

 志賀直哉の「和解」は直哉と直温と思しき対立する父と子が和解するまでの状況を描いた中編小説である。

 「和解」は主人公の作家の順吉が一人称で語る私小説の形をとっている。順吉を直哉と見ても差し支えない。

 順吉は夫婦で我孫子に住んでいる。父親が住んでいる実家は麻布にある。麻布には父の他に祖母、義理の母(順吉の実母は順吉が小さい頃亡くなっている)、そして腹違いの弟妹らがいる。祖母は順吉をたいへん可愛がっており、順吉も祖母を慕っていた。

 物語はすでに順吉と父親が対立しているところから始まる。なぜ対立したかは語られないがそれが長きに渡っているのは感ぜられる。順吉は父親には会いたくないが祖母には会いたいので父親がいないときに麻布の家によく行く。

 先年、順吉の生れて間もない長女が死んだ。このときの父親の対応が順吉をひどく傷つけた。父親は長女を一家の菩提所である青山墓地でなく我孫子の墓地に葬れと言ってきたのだ。順吉の父親に対する怒りがピークに達した。対立は決定的になったと言ってよい。 順吉と父親の回りのものも非常に気を遣った。特に義理の母は2人の間を右往左往し、何とか2人を和解させようとした。

 順吉は意固地になって父親に対して心を開かなかった。それは父親も同じであった。順吉は父親とのことを小説に書こうとした。

 ところが、順吉夫婦に再び新しい生命が誕生したときから順吉の気持が変わってくる。父親の気持ちを考える余裕が出てきた。順吉は義理の母の後押しもあり、いよいよ父親に今までのことを謝った。順吉は折れたのである。

 2人は長い間の不和から解放されたのである。

 この「和解」はツルゲーネフの「父と子」に見られる父と子の思想的葛藤を描いたものではない。2人の葛藤はあくまでも感情的なものである。初めて「和解」を読んだときは何か味気ないものを感じたが、何度となく読んでいくうちにこの作品のすばらしさに気づかされた。

 何と言っても順吉の心理の微妙な変化が微に入り細を穿ってうまく描かれている。文章が引きしまって緊張感を漂わせる。

 最後は、つぼみが時間を置いて花を咲かせるように一気に和解に向かっていく。と同時に回りの世界が和やかになっていく。

 「和解」は「家族愛」を謳った傑作である。

本文来源:https://www.2haoxitong.net/k/doc/a1c3e15e312b3169a451a412.html

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